ハワイでドライブ事始 №9(完)第12日目・1995(H7)年6月14日・水・晴(6月14日)オアフ島ドライプ7日間…その8日目-後半 ★ニイハオ・シェルの故郷を眼下に眺めて感慨一入 そんな感傷にしたるうちにも時は流れ、出発の時間となった。快晴に恵まれたホノルル空港を、私達を乗せた中華航空機の真新しいジャンボ機は、若干遅れ気味ではあったが無事離陸。エメラルドグリーンの沖合いから白波が磯に泡立つベージュ色の砂浜や、そこに座礁した難波船の上を掠めるようにして右に大きく旋回。グングン高度を上げて、一路東京へと進路を決めた。 真珠湾西域らしい美しい海岸線が右手眼下に暫らく続いたのち、機はポカリポカりと白雲が浮かぶ青一色の洋上に出た。やがて右手遥かにカウアイ島の南岸らしい海岸が目に入って来た。急いでビデオカメラのズームレンズを最大に望遠側に切り替えたその時、真下に近付く別の島影が入ってきた。それは今回の旅で探し求めた、あの小さな貝を磨き連ねた首飾りの故郷「ニイハオ島」だった。 機窓から手に取るように一望するこの細長い小島は、地図を見ると、カウアイ島を母のように見て慕い寄る生まれたての子犬のようでもあり、《NIIHAU IS.(Privately Owned)》とある。即ちこの島は、所有者一家と使用人以外は立入禁止の島で、ハワイが米国の統治に移る以前、ハワイ王朝から特別に独占的居住権を得ていたものだった。したがって現在の州政府もそのままの形で此れを引継ぎ、所有者の白人一族と使用人である限られた中国人家族の関係者以外、殆ど誰も近付く事が出来ないという訳であった。 それが幸いにも長くこの島の自然を美しく保ち、ニイハオ・シェルのような美しい工芸品を生む事になったのであろう。しかし石油の全盛時代を迎えた今、前述のように広く海洋汚染が進むに連れて海岸に流れ着く貝の量も激減。それでなくとも限られた生産量のニイハオ・シェルは、殆ど業者の手に入らなくなってきたという訳である。 そんな歴史を持つニイハオ島だが、もう一つ私達日本人として忘れられない出来事が日米開戦の初頭にあった。それは日本軍捕虜第1号として知られ、あの真珠湾攻撃に特殊潜航艇に乗り参加した酒巻海軍士官が、失神状態で流れ着いたのが奇しくもこのニイハオ島だった。少し朧気になった私の記憶によれば、軍人精神に忠実だった酒巻氏は、当初この島の中国系使用人一家に発見され手厚く介護されていたが、僅かな住民のみの島の実情を知り、一人でこの島の占領を企て失敗した事から反感を買い、ハワイ州政府に引き渡される事になったとか…。この物語の真偽は定かではないが、今ブラジルで農園経営者となっていると言う酒巻氏の一命が、この島の人達によって助けられた事だけは間違いない。 そのニイハオ島が、今、私の直ぐ下に美しく広がり過ぎ去って行く。こちらに向かって弓なりに弧を描いて連なる二つの砂浜。あの美しい小さな貝も、この浜辺で採れた物ではなかったろうか…。私達を乗せた中華航空機は、その端から端までを僅か数分で通り過ぎようとしていた。でもそんな可愛らしい島でも、限りないロマンと豊かな優しさを秘めたニイハオ島だ。私は隣の家内にも指し示し、代わる代わる去り行く島の景色を眺めた。これからはあの貝が家内の首を飾る度に、この美しい小島の風景や物語が私の脳裏に幾度か蘇るに違いない。 ニイハオ島を過ぎた後は唯もう一面の海と雲ばかりの機窓となる。それを待っていたように、機内では粒をそろえた台湾美人達のドリンクサービスが始まった。飲物は何でもお好み次第と言われ、つい気を良くした私はブランデーを注文する。殆どの客の注文はビールかジュース…。でなければスコッチかワインといったところだろうから手許には無く、わざわざ機首のほうに取りに行き戻って来た。 エコノミークラスの癖に面倒な注文をする髭のオジンだと、若い彼女は内心で思ったかもしれない。でもそんな素振りは露ほども見せず、未開封のボトルの封を切って笑顔優しくグラスを渡された。同じ中国人でも、本場中国の旅では一寸こうは行かない。特にスチュワーデスは滅多に笑顔を見せない。特にかつての敵だった年配の日本人達には、笑ったら損々とでも思っているのか…と、その無愛想さに憤慨していた旅友もいた。 その点、中華航空の女性達はサービス第一でマナーも良く社員教育が行き届いている感じだった。これに続き運ばれた食事も、主餐は肉料理と魚料理の選択性だったが、欧米系の航空会社の機内食より我々には美味しく味合えた。旅行中テイクアウト食品や手軽な料理で間に合わす事の多かった私達だけの事かとも思ったが、近隣の乗客の評判も決して悪くないようであった。 やがて乗機は日付変更線に近付いて行く。機内では窓が閉められ、劇映画が始まった。なかなか面白そうなアクション物で、思い思いにイヤホーンをしてスクリーンに見入る人も多かったが、朝早かった私は、往路貰っておいたアイマスクで目を覆い、暫しの眠りに就いた。 **参考事項***************************************************************** ★支出経費明細(6月13日) *ホノルル空港レストラン(朝食代≒15$)………………………………………………≒1320円 *ホノルル空港売店(音楽テープ代≒20$)…………………………………………… ≒1760円 *************************************************************************** 第13日目・1995(H7)年6月15日・木・晴のち関東接近後、曇 (6月15日)約2週間ぶりの日本雑感-前半 ★成田とは対照的な都市美を楽しみながら羽田着 2~3時間は眠っただろうか、やがて劇映画が終わり窓が開けられた。明るい真昼の陽光が射し込む機内のスクリーンに映し出される、半ば薄れたコンピューターグラフィックによる情報が、東京との中間点を遥かに越え、到着地まで残り1時間半足らずである事を示した。ここでまた軽食が運ばれてきた。殆どの乗客が未だ食欲が出ない様子で、そのまま手をつけない人も多かったようである。私達も羽田着の予定が12時50分だったので、先程のが昼食で、それだけかとも思っていたため一寸持て余した。しかし、勿体ないと一人分を分け合って食べ、残りは沼津へ向かう車内ででも食べようとバックに入れた。多分残せば豚の餌が良いところだろう。飽食の時代にあっても、戦時下の食糧難が忘れられず、一物たりとも粗末にできないのが私達世代の習性とも言われるが、それを笑えない時代が再び訪れなければと願う私は、恥ずかしいなどとは決して思わない。 また機内スクリーンに情報が映り始める。羽田までの所要時間はもう1時間もない。正午のニュースが映し出されて、この春以来ずっとトップニュースとして経過情報が続いている、「オウム真理教による無差別テロ事件」や、政財界癒着による「東京の二信金不正融資事件」などの、その後を知る。 東京の天候は曇。為替相場は84円11~13銭とも伝えられる。昨夜ワイキキの両替店で売ったドルと大よそ同じレートだから、多少また円高気味のようだ。 そんな事を考えるうちに、右手の機窓遥か先に中腹以上が暗雲に覆われた山々を背にした陸地が近付き、洋上の此処彼処に大小の船影が増す。どの辺かしらと目を凝らすうちに、機は小さな港が見える海岸線を越えた。往路の三浦半島沿いのコースとは違い、帰路はどうも外房からのコースらしい。高度がグングン下がる。始め野山が多かったが視界が次第に都会らしさを増し、様々な大施設が眼下に展開する。船橋近くだろうか…。と、思う間も無く明らかな東京湾岸の風景が駒抜きの映画を見るように早々と過ぎ去って行く。成田とはあまりに対照的な何と艶やかで楽しい離着陸風景かとの思いを新たにしながら、12時40分羽田空港に無事着陸した。 往きも帰りも、約10分遅れの出発だったのに約10分も早い着陸で、これは予定より早目の列車に乗れそうだと、気を良くしながら荷物を受け取り帰国の審査を受け、預けた荷物が出てくるのを待つ。ツアー参加時と違い、二人旅だから税関検査も厳しいであろう。注意されたら超過分の課税も止む無しとして、いつもは少し多目に買う帰国便内の免税煙草も、今回は限度内とした。ところが、まるで肩透かしを食ったかのような簡単な質問応答だけで済んだ。 国際線の到着が相次ぐ成田と違い、中華航空専用とも言える今の羽田国際線ビルの発着は、薄汚れたままの施設はともかく、ガラリとした中で至極スムースに事が運ぶ。おまけに2千円の空港利用税も要らないのだから経済的でもある。これで、横浜駅へのリムジンバスが常に国際線ビルへ立ち寄ってさえくれたら、まことに万々歳なのだが…。 ★黙って見過ごせない、利用者置き去りの昨今リムジンバス運行事情あれこれ 即ち、この横浜駅と羽田空港を結ぶ京浜急行運行のリムジンバスは、出国時も同様逆を演じさせられたが、帰国時もまた無用な国内線ビルまでローカルバスで戻らなければ乗れないと言われ、思わぬ迷惑を蒙った。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * これは余談であり後日談でもあるが、先日JRの東名バスに乗った。たまたま途中から運転手と乗客は私だけになり色々話が弾んだ。 話の発端は、開業当時に毎時何本もあった沼津駅発着の東名バスの運行ダイヤが、この数年来は遂に東京からの沼津駅への下り片道1本だけとなった訳を私が尋ねた事からだった。 その運転手は特に実直そうで感じの良い人物で、その変化の事情や最近のバスに関する裏話を、こんなふうに細々と説明してくれた。 「実は、国鉄の民営化以来、バス路線は完全に継子扱いにされてしまい、不採算路線は切り捨てなければ生き残れなくなってしまったのです。まあ鉄道事業の場合は、ある程度採算を無視しても残すべきものは残さなければならないと言われています。だがバス路線は完全な利益追求の会社としてのみ存続を許される形となってしまいました。 お話の沼津駅⇔東京駅線は、開業当時、経済性と快適性が買われて、一時は一度に数台も増便して運転していた文字通りのドル箱路線でした。ところが首都高速の渋滞激化で、ダイヤどおりの運行が難しくなり、乗客から頼りにされる足としての意味も半減。加えて新幹線が出来、新宿からは《あさぎり号》も新設されたため、これらや在来線に客足が向かってしまい、廃止してしまえと言う事になった訳です。 しかし困ったことに、沼津駅の車輛置場の所有権は、使用しない場合は無償でJR東日本の所有物に編入される仕組みになっているのです。そんな訳で、権利確保のため止む無く今は終便一本を沼津駅までとし、この車を回送して富士発の初発便として名目を保っている現状なんです。何しろ現在、沼津駅までの乗客は一日一人か二人ですし、富士からも大した事はありません。それでも富士からだと日曜日だけは結構利用者があるんです」。 「なるほど。でも沼津市民のひとりとして言うなら、何時でも利用でき、運賃が列車より割安で座席指定、重い荷物も預かってもらえ、乗り換え無しで東京・沼津間を往き来できるというメリットを自ら捨て、鉄道と良い意味で競い合おうと言う姿勢をなくしてしまったJR側こそ、利用者激減の要因を作ったのではないでしょうか。それが今ではリムジンバスなのに、荷物さえ快くトランクに預かってくれない運転手もいる…」。 「そう、確かにそう言う事も言えますね。だから始めのうちは、民間の優秀な経営者や幹部を起用し、その商法を見習うべきだと言う現場の声も上申してみたのです。でも今の上層部の人達にとっては、力関係で上位にあるJR東日本との競合は、何としても避けて通りたいのでしょう」。 「まあ早い話が、サービスと合理化に努めれば客足を鉄道路線から取り戻せる策があっても、自分自身の保身と栄達に響くって訳か…」。 「とにかく、下の者はただ黙って一生懸命働いていないと、首を切られたり賃金カットされたりして、割を食うのは一番先ですしね…。 それからJRのリムジンバスで荷物を預からなくなったと言うお話ですが、あのオウムの事件以来、一般的には荷物は預かるな、怪しい荷物があれば点検せよという通達が、各バス会社の申し合わせ事項として出た事があります。このため、一時それを曲解して荷物室の使用を全部お断りした者がいたかもしれません。でも始発から終点までの場合には、ご要請いただければ荷物室に預かるようにしていますので、どうぞご遠慮なくお申し付け下さい」。 ここで私は、前述の横浜駅⇔羽田空港リムジンバスで味わった何とも身勝手な運行事例について、民間のバス会社でもこんな酷い例があったと話してみた。 すると、 「それは全くお腹立ちだったでしょう。なにしろ今は何処もバス会社は経営難のところが多く、乗客の利便より利潤追求ばかりを優先しがちですから、そういう運賃の二重取りになるような事も気に掛けないでダイヤを編成してしまうんでしょうね。でも空港連絡のリムジンバスで荷物室を使わせないというのは初耳ですね」。 「そうですか、そんな裏の事情もあるんですね。実は成田からの帰りなど大きな荷物を手にホームの乗換えが一苦労で、東京から沼津駅まで寝て帰れて安いこのバスを、度々利用させてもらっています。これからも、精々利用させてもらいたいと思いますのでヨロシク」。 まあ、こんな内容の会話であったが、とにかくリムジンバスは普通のバスより料金も高いのだから、荷物を預かって目的地まで運んでくれなくては困りものだ。乗客が困るのを承知で重い荷物を持たせたり、理不尽な経路を辿らせて本来必要としない区間の運賃まで払わせるなんて、公共の足を任される一流企業の名前が恥ずかしがって泣いていると思う。 第13日目・1995(H7)年6月15日・木・晴 (6月15日)約2週間ぶりの日本雑感-後半&あとがき ★娘夫婦の出迎えに助けられた13日ぶりの帰宅と、生き延びていた野良猫一家 さて羽田空港国内線ビル発のリムジンバスは、そうした不満を抱く国際線ビルからの乗継客の心などお構いなく、重く大きな荷物を狭い通路越しに車内に持ち込ませ、運転手は涼しい顔で発車した。…あの国際線ビル前も何知らぬ顔で素通りして、横浜駅前そごう百貨店2階の発着所に着いた。そこでまたエンコラショと重いトランクを客室から大汗かいて運びだした私達は、忌々しげに運転手を見返してから、長い地下回廊を通り抜けて横浜駅のホームまで急いだ。 国際線ビルから直行できれば間違いなく乗れたであろう予定列車は、ここで10分程の差で発車してしまっていて、約1時間遅れの列車を待つ事となった。止む無くホーム下のスナックでコーヒーを飲み、機内食として貰ったサンドイッチなどを摘みながら時間を潰した。 こうして午後5時過ぎに沼津駅に帰着すると、横浜駅での待ち時間を利用し電話で安着の連絡をしておいた次女の二美夫婦が、気を利かせて孫の賢太を連れ車で迎えに出ていてくれた。近頃の日本のタクシーは重い荷物があると乗車拒否をする運転手さえ居るので大いに助かる。2週間ぶりの孫や娘夫婦の元気そうな顔を見て、誰かさんの顔もパッと明るさが増す。 我が家に戻り、美味しい新茶を入れて一息つき、横浜駅で買い求めてきた久しぶりのシューマイ弁当を開き食べ始めていると、裏庭でニャーニャーと猫が騒ぎ出す…。何と、このところ我が家に住み着き、食事時になると物乞いに来る母子4匹の野良猫達だった。悪さばかりして困らせるため、この旅の間に餌が貰えず他所へ引っ越してくれれば好都合だがと話していたのだが、とんだ期待外れだった。それでも誰かさんは、口では「仕方ないノラ猫共め !」と言いながらも、飢え死にしてなくて安心したらしく、早速余り物を与えて静まらせ、早めに風呂を浴び眠りに就いた。 ★あとがき(ハワイ昔旅シリーズ2編の再編公開を終わるに当って) 前後合わせて19日間、二度に分けて出かけた海外ドライブ事始めを主目的とした私達夫婦の初ハワイ旅行記、「古い日記・ハワイ特集」も漸く完結した。 国際結婚されて今ハワイにお住まいと言う「Haupiaさん」のHPを拝見。あの素晴らしかった19日間の夢のようだったハワイの思い出が何とも懐かしくなり、ハタと思いついたのがこの企画変更だった。 それまで夫婦交代で書き始めた頃の1966年の日記を、楽天日記ネタとして推敲整理して連載公開し始めていて、次が32回目であった。一度に約30年も高飛びしての日記の公開ゆえ、一部のカキコ仲間は些かアレアレとも思ったようだが、これも年寄りの気紛れ。以後も前後自在にタイムスリップしての日記公開となろうが、なにとぞトラベルミンでもご用意されご寛容お付き合いの程を…。 さて、その4月13日から今日5月10日までの通算28日間に分割した、長く綿々たる書きっぷりの連載。如何に義理堅い読者諸兄姉もサゾサゾご退屈様であった事かと、この脱稿に際し深謝しておきたい。 未だパソコンは初心者の私ゆえ、Hi8の画像でも加えられたら…と思いながらも、関連写真を入れると本文が書ききれない事も予想されたので、とにかく本文だけ先ず一生懸命再推敲しながら書き上げた。 なお、この旅行記は後で別ページとして左欄に掲出する予定だが、その際には当初の企画どうり関連写真を挿絵としてできるだけ併載するつもりだ。それゆえ、別ページ化が完成した際には、画像だけでもチラリご一覧を願えたら…とお願いしておきたい。 勿論、未だ初心者ゆえ稚拙な画像処理しか出来ず、また旅行中の記録も作文の基本としたビデオ画像のみなので、画質自体大層お粗末なものとならざる得ないが、まあ「百聞は一見に如かず」の譬えもあるので、私の拙文では表現し切れなかった部分を「ああ、こんなだったのか」と多少でも補って貰えるのではと思う。 例えば「ニイハオ・シェル」だが、文章ではその繊細な工芸品の実像の文字どうり百分の一も伝え切れなかったのではなかろうか。しかし私の下手な写真でも挿絵として見ていただければ、まあ十分の一ぐらいは家内が惚れこんだハワイの特産工芸品の美をご納得いただけようと言う訳だ。 また、細々とした表現を一段と密にしたので読まれた方によっては、冗長の感をヨリ強くしたかもしれない、カメハメハデイのパレード描写にしても、筆者自身としては尚々筆足らずの思いが残る。 それ程に、この祭りは私を夢中にさせた。このためラッシュ版から編集制作したホームビデオ中では、ここだけを旅の総合記録からクリップアップして、『ハワイの祭りカメハメハデー・パレード』の別タイトルを付け、独立作品として旅友達へのハワイ土産とした。 即ち、ハワイの「時代祭り」とも言えるのがこの催しだ。今も思い出し、約半時間作品なのでテープの虫干しがてら久々に観賞してみたが、やはり筆写より格段に面白かった。 当然ながら、ズブ素人の余興とも言える古い記録だから、今見直すと余計に目障りな箇所も多い。しかし、それゆえにこその良さや面白さがあって、本当に史料価値のあるグーな作品だと改めて自画自賛した次第。 なお、そのパレード画面の中には、この古い日記シリーズにハワイ紀行を臨時登場させる機縁を与えてくれた「Haupiaさん」が多分お住まいと思われる「ラナイ」の美女達も騎乗のプリンセスとなって行進する場面もある。本当は動画のまま紹介したいのだが、今の楽天日記では多分困難だろうから、その1場面だけでも挿絵に出来たらと思う。 また、この楽天の外部からの読者として、毎々電話で感想や助言を聞かせてくれている旧友のU君へも、代わらぬ友情に心から感謝の意を表しておきたい。 貴兄の送ってくれた三種のハワイ詳細地図は、私の夢の展開に大いに重宝しているよ。例えば、4月29日の日記で書いたオアフ一周路線バスでホノルルへ抜けた最後のコース。その地図のお蔭で、多分61号線のパリ・ハイウエー経由に間違いなかっただっただろうとの思いを新たにさせられた。尤も尚63号線のリキリキ・ハイウエーだったのではとの疑念も僅かながら残ってはいるのだが、又いつか乗る機会があれば、今度はこの地図のコピーを持参して確認したいものと思う。まあ、それも原稿書く上での拘りと言えば拘り。地元の人なら何だそんな事…と思うだろうがね。 閑話休題。 その話題にしたリキリキ・ハイウエーだけど、前記した「Haupiaさん」が昨9日の日記で斯くなるハワイ語講座を開陳して正しい読み方を教えてくれていたので、参考までに少々脱線して以下一部引用紹介しておこう。 ************************************************************************** ……(前略)…… 例えば、ハワイ語って音が日本語と同じなんだよね(全部じゃないけど・・・) いわゆる 『A/I/U/E/O/』の音なのよ。(母音ってやつぅ??) 例えば“Likelike Drive in”は リケリケドライブイン♪じゃない? なのに本土の人なんかはそのまんま “ライクライクドライブイン” って読んじゃうらしいの。 そんな風にちゃかしてる夫だって “リキリキドライブイン” って呼んでいるんですけど・・・・(*^m^*) “E”を“え”って読まないんだよねー。 “E”は“いー”なんだもん。 だから我々日本人はハワイの地名や道の名前を読むのはすっごく簡単。 カタカナ読み(ローマ字読み)そのまんまでOKなんだもんっ♪ ……(後略)…… ************************************************************************** …と、マアこんな内容なんだけどね。それで、あの「リキリキ・ハイウエー」の表記は、どうやら現地語読みすると「リケリケ・ハイウエー」が正しいんだと教えられた訳。 ついでに彼女の日記、ここで皆さんにもオススメしておくよ。結構ハワイ事情を知るのに役立つし、その他の記事も夫婦漫才風で本当に笑わせてくれて楽しいんだ。気が向いたら一度お部屋拝見に出かけては如何? じや、『誠&幸の古いハワイ日記』は以上でオシマ~イ。 別ページが出来たら、写真見てくれるのも忘れんといてなぁ…。 「アローハ !!」 **参考事項***************************************************************** ★支出経費明細(6月9日) *羽田空港内連絡バス代(国際線→国内線@400X2)…………………………800円 *横浜駅スナックコーヒー代(@350X2)…………………………………………700円 *横浜駅「崎陽軒」シュウマイ弁当他…………………………………………1800円 *************************************************************************** ジャンル別一覧
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